夏に駆ける
〜プロローグ〜
2020年、1月、朝。
リビングのテレビではクルーズ船の乗客インタビューが流れている。なんでも乗客は何週間も船上で隔離されているらしい。毎日毎日、中国がどうだの、クルーズ船がどうだの、てんやわんやだ。
正直言って私はあんまり興味はもてない。クルーズの感染者が何人になろうと、東京で新規感染者が発生しようと、食べてくだけで精いっぱいの今の暮らしにはなんの関係もないし、クルーズ船なんてこの目で見たことすらない。私たちの生活は以前と何も変わらないのに、世間様は一変したようで、なんだか取り残されてしまったかのような感覚になってくる。
このCMが終われば天気予報だ。たまには傘を持たずに仕事へ行きたい。
天気予報だけを放送する番組があればいいのに、なんて思いながらコーヒーを口にした。
その時だ。
「俺、受験するよ。」
君はそう言った。
絶対に進学はしない。
中学を卒業したら家を出る。
どこかで働く。
1年間そう言い続けたはずの君が、
再来月から自衛隊の寮に入るはずの君が、
たしかに、
そう言った。
なんて返せばいいかわからなかったから、そう、とだけ答える。コーヒーをもう一度口にして、テレビに目をやる。ぼーっとしてたら天気予報はもう終わりかけで、週間天気が始まっていた。
ああ、見たかった今日の天気は見逃しちゃったかぁ。最近こんなことばかりだな。
そういえば、昨日の会議中、上司に似たようなことで注意されたっけ。
画面が切り替わり、アナウンサーが締めに入る。
明日は全国的に晴れるらしい。
[1]
中学三年生、別名、受験生。鬱陶しいジュケンセイ。
年度が替わって四月になると、どいつもこいつもそわそわし始めた。
内申が下がるとかテストの点がどうだとか、以前にもまして休み時間の女子はやかましい。
「受験の話ばかりしてるやつってだせーよな」
そいつらにも聞こえるような声で、隣の席のマサルに話しかける。たしかに聞こえたのだろう、話を切り上げて、自分のクラスへ逃げて行った。
クラス替えで別れた友達に会いに来るなんてださい。しかも受験の話なんてださい。我慢できなかった。
マサルが話しかけてきた。
「まぁ。シュンの気持ちはわかるけどさ、やっぱり不安じゃんか、高校どこ受けるん?」
「どうかな、受けないかもな。『オジュケン』なんてだせえし。」
マサルは一瞬目を丸くしたようにみえたけど、それもいいかもな、と笑った。
[2]
夏休み前の二者面談前には、判で押したような紙切れが渡された。第一志望、第二志望とだけ書かれたそのB5の切れっぱしには、「就職」とだけ書いて、即日つきだしてやった。面談のテーブルが一番最初だったのにはそれもある...ていうかそれしかない、と思う。
実際に、面談では散々な言われようだった。中卒では就職口なんてない、高校ぐらいは出るべき、考えなおせ。何が嫌なんだ、勉強がそんなに嫌なのか。
ありがたいお言葉をご親切に語ってくれてるつもりだろうけど、結局は「高校へいけ」って言葉の言い換えにすぎない。結論ありきのだらだらとした文言を聞き流しながら、チー牛が先生になるとこうなるのかな、なんてことを考えていた。
七月初旬のじめじめとした暑さに、西日の熱線が顔をじりじりと照らしていた。
[3]
秋の入隊テストは本当にあっけなく決まった。体力テスト、視力テスト、筆記試験なんてのもあったけど、全員通ったんじゃないかと思える難易度だった。
自衛隊なら中卒でも働ける。そう知ったのはやっぱりネットだった。
高校なんて絶対行きたくない、はやく働きたいと思ってた自分には光明だ。
女手一人で自分を育ててくれてる母親に、早く楽をさせてあげたい、なんてそういうだっさい気持ちがなくはない、ということに自分でも気づいてはいたけれど。
進路志望には自衛隊と書いて提出し直した。三者面談においても、チー牛はしきりに進学を進めてくる。
自衛隊は甘くはないし、高校を出てからでも間に合う。成績だってかなり良いのだから、高専だって進学校だって狙える。もう一度考えたほうがいい。
『本人の意思を尊重します』と、一言ではねのけた母親は、強いなと感じた。でも、その横顔にさびしさと悲しさを感じたのは勘違いじゃない、とも思う。
[4]
「シュン君、ちょっといい?」
手がかじかむような下校時に、後ろから誰かに声をかけられた。
あんまり話したことない、クラスの女子だ。けど、話してみたかった女子だ。
いきなり話しかけてくるなんて、どうしたんだろう。嫌な気持ちはしないけど。
もしかしたら俺に何かあるのかな、もう冬だしな。三年生もあとわずかだしな。…なんて期待をどうにか押し込める。
「高校いかないで、自衛隊に行くって本当なの?」
ああやっぱりか、と思った。なんだ、とも思った。
みんなと同じなのがださいから。早く就職して自分の金で遊びたいから。ただそれだけだよ、とそんなことを話した。
かっこいいよ。
そういうの、憧れる。
私なんてちょっと成績いいだけだから。
桐谷高校、一応狙ってるけど、入りたいからとかじゃなくて、入れそうだから、それだけだよ。
将来のことなんて、まして仕事のことなんて考えたことすらない。
なりたい職業なんて本当はないけど、聞かれたら面倒くさいし、英語の先生ってことにしてる。
そんな私なんかより、ちゃんと将来を考えられるシュン君、すごいよ。
みんなは色々噂してるみたいだけど、私は応援してるから。
思ってもみない言葉の数々に、何を言えばいいかわからなかった。
その日はその後どうやって帰ったか、まったく記憶にない。
たしか、名前、里奈さんだったかな。
苗字は、なんだったかな。
キリ高か。。。
〜エピローグ〜
2020年、8月、夜。
あれから俺は結局、進学することを選んだ。
少し遠いけど、なんとか自転車で通える距離だ。日中は馬鹿みたいに暑いけど、下校時は夜の風が顔にあたって心地良い。
桐谷高校には残念だけど、入れなかった。
ちょっとだけ、多分、きっと、ほんの少しだけ、だと思うけど、点数が足りなかった。
私立にいく金はないから、二次募集していた工業高校の電気科になんとか滑り込んだ。
「だせえ」
帰り道、ペダルを踏みながらひとりごちる。
教師にどんなに言われても就職と言い張った自分。
ちょっとかわいい子に応援されたら、ころっと考えを翻す自分。
結局入試に滑った自分。
ほんとにださい、情けないぐらいださい。
ため息をつきながら自宅に戻ると、ポストに資格試験の模試が挟まっていた。
電気主任技術者。
これを在学中に取れれば、まぁ就職には困らない、らしい。
とれば就職に困らないと言われて目指す自分。
とって褒められたいと思ってしまう自分。
資格を目指して、勉強する自分。
深呼吸に似たため息をつき、やっと机に向かうと、LINEが来た。
「模試、がんばってね!」
ニヤニヤしている自分はこの上なく、だっっっせえ奴だと思った。