5月29日、私は家族を捨てた。ずっと家族を捨てたかったし、家族から離れたかった。もし捨てることが出来たらどれだけ楽だろう。もし離れることが出来たらどれだけの重荷が私から消え去るだろう。そんなことばかり考えていた。

私の父は所謂毒親というやつだ。私の物心が付いた頃から、家はまるで戦場のようだった。何をしてもしなくても聞こえてくる父の怒鳴り声。父が母を怒鳴る姿。父が母を殴る、蹴る姿。父が暴れることで生じる大きな物音。幼い私に、父は耐え難いほどの恐怖心を植え付けた。私と兄が楽しそうに遊んでいても同じだった。楽しそうに騒げば怒鳴られ、泣けば怒鳴られた。幼い私はなんとか場を和ませようとピエロを演じた。しかし、いつからか私は親から私の存在を隠すかのように、部屋に籠って過ごすことが多くなった。どうやらその態度すらも父は気に入らなかったみたいだ。

こんな世界で生きていると、この世界に対する基本的な安心感や信頼感は勿論のこと、自己肯定感なんて形成されるはずがない。そして何年も感情や気持ちを押し殺して生きていると自分が自分で何を考えているのかさえ分からなくなってしまうのだ。感情に蓋をして生きてきたのだから、昔の記憶も無いに等しい。私は本当に存在していたのか、本当に存在しているのか震えるほど怖くなる時がある。他人の表情を過剰に伺ってしまったり、少しのことで物凄く傷ついたり、見捨てられ不安が強すぎたり、生きづらさもたくさんある。父親は私にこの世界に対する基本的な信頼感を与えなかったどころか、後遺症とも呼べるような、生きづらさを与えた。

一方母親は、そんな父親に毎日頭を抱えていた。そのストレスが私に飛んでくることもよくあった。車の中で延々と怒鳴られたり、兄に意地悪をされた時も兄と一緒になって笑われた。遊んでと言っても遊んでくれたことなんてなかった。こんな光景はどこの家にも見られることだと思う。だから私は別段母を恨むとかそういうことはない。寧ろ、母とは楽しい思い出がたくさんある。この時はまだ毒親だと思ったことはなかった。

しかし、母は「子供のために」という言葉をよく使う人だった。「子供のために離婚しない」「子供のために我慢する」「子供のために謝る」私は母が辛い思いをしていたことをよく知っている。なぜなら、よく母親から父親や祖父母の悪口を聞かされていたからだ。「死にたい」そう言う母親を宥めた時期もあった。学校から帰ると母が自殺してしまっているのではないか、そんな不安を抱えながら学校に行っていた時期もあった。

父親はクラブや風俗なんかに通って帰りが遅い。仕事にも行かず家で怒鳴るか寝るかゲーム。祖父母の母親に対するいびりも度を超すものだった。そんな中での子育ては想像もつかないくらい大変だっただろう。母には感謝してもしきれない。

しかし、いくら感謝しているとは言え、私にとって「子供のため」「あなたのため」という言葉は重荷でしかなかった。大学生になるときや、社会人になるとき実家を離れて独立するタイミングなんていくらでもあった。その度に足枷になったのが母親の「子供のため」という言葉だった。母親は今まで私のために我慢してきてくれたのに、私だけ一人暮らしして家から逃げても良いのか。私だけ楽になっても良いのか。こんな考えが頭から離れなかった。

そして実家から逃げることができずに社会人になってしまった。継ぎたくもない父の会社に入社することになった。全ては母親のためだった。いや、母親のためではないのかも知れない。母親の「せい」で逃げられなかったのだ。なぜなら母親は「私のためにずっと我慢してきたから」だ。母親は私に、不器用な愛情と重い足枷を与えた。別にカテゴリーに当て嵌めなくても良いのかもしれないが、こういう側面では、母親も毒親だったのかもしれない。

5月19日、事件は起きた。また父親が理不尽なことで大きな声をあげた。自己愛性パーソナリティ障害という言葉をご存知だろうか。私の父親はこれに該当すると思う。調べていただければどれだけ厄介な障害か分かると思う。

私は耐えられなくなり、母親と共に家をでた。実は家出は初めてではない。5月19日の1週間前にも私一人で家出している。その時は母親を置いてきた後悔から一旦家に戻ってしまった。だから、今回は母親に一緒に来てもらおうと思った。そうすれば気がかりなことも未練もなくなるからだ。母に懇願した。「一緒に来てくれ。来てくれたら必ず守るから。父に経済的に依存しながら生きていく必要はない。私が守る」と。母は納得してくれた。二人とももう家に戻るつもりはなかった。

所持金は100万円程度だった。私が学生時代に、いつでも家を出られるように貯めておいたお金だ。2人でホテルに泊まりながら仕事や家を探した。毎日ホテル代に消えていくお金。見つからない仕事、家。不安は募るばかりだ。母を連れて出た良いが、母はもう50歳だ。今まで専業主婦だった。本当に働くことなんてできるのだろうか。私もまだ父の会社から籍を抜いたわけではない。正社員として就職できるのだろうか。さまざまな現実の壁にぶち当たり、不安を抱えながら将来を悲観する毎日だった。1週間がまるで1ヶ月のように長く感じられたことをよく覚えている。

そんな時に父親から電話がかかってきた。その次の日だったと思う。母は父の元へ帰ると言い始めた。母の言い分はこうだ。「いくら嫌なことがたくさんあったからと言って、今まで父親にしてもらったことを忘れてはいけない。そして今このタイミングで帰ることがあなた(私)のためになる」そう言い、私に帰ることを強制した。これがモラハラ被害者の思考なんだと愕然としたことを覚えている。

私は元々帰るつもりなんて無かった。もう一生帰らない覚悟で家を出てきたのだ。母親と意見が対立してしまった私は、ここで母親と袂を分かつことになった。ひどい言葉をたくさん浴びせてしまった。今でも後悔している。母に対しては複雑な気持ちがありながらも大好きだったことは確かだ。

母親とは楽しい思い出が圧倒的に多かった。ゲームセンターに行ってはしゃいでみたり、一緒に映画を観たり、家の中でふざけ合ってみたり。ほんの2か月前、生まれて初めて母親と二人で旅行をした。旅行と言っても近場で日帰りだったが。そこで母親の大好きなカニをたくさん食べさせてあげた。観光にも連れて行ってあげた。とても楽しそうにしてくれていたことをよく覚えている。私が社会人になったら、お金をたくさん貯めてお母さんにたくさん美味しいものを食べさせてあげたい。楽しい場所にたくさん連れて行ってあげたい。そんな密かな夢すら叶えることができなかった。母親の今までの苦労が帳消しになるくらい幸せにしてあげたかった。でも、それはもう叶わない。母親が必死に守ってきた壊れかけた家族を私がぶち壊してしまった。

父親とも母親とも縁を切った。大好きだった兄にももう会えない。兄は彼女さんと同棲しているから、私が家出したことすらも知らないだろう。兄は彼女と同棲するときに、私に言った。「お前はまだ家を出るな。お前が出たら家族は崩壊する」と。きっと兄なりに家族のことを心配していたのだろう。兄とこんな約束をした。「会社のことも父親のことも任せて」と。でも、そんな約束さえ守ることができなかった。

今でももう一度、もう一度だけ家私は我慢できたのではないか。もう一度だけ家に帰っても良かったのではないか。そんな風に考えてしまう。捨てたかった家族。いざ捨てると楽しかった思い出が浮かんでくる。いざ捨てると自責の念に苛まれてしまう。人間って本当に複雑で面倒だ。

ただ、一つ言えることは、人生に親ガチャは確実にある。よく「親のせいにするな」とか「一人暮らしすればいいのでは?」という言葉を聞くが、それができるなら皆とっくにしている。それができない事情があることを知ってほしい。目には見えない足枷、がんじがらめに縛られた家族。世界に対する基本的な信頼感も自己肯定感も得ることができなかったがために、自立できない人だっている。

どんな出来事も言葉一つで、文章一つで語れるものではないこと。目に見える部分が全てではないこと。私もそうだ。ここに書いてあることが全てではない。人間家族この世界は複雑で闇が深い。そんな中でもただ私のやるべきことをこなして生きていくしかないのだ。